経営陣③ ナイキ(NKE)のフィル・ナイト

世界最大のアスレティック・シューズおよびアパレルメーカーであるナイキ(NKE)はフィリップ・ナイトによって1971年に設立されました。ナイキの前身は1964年に設立されたブルーリボンスポーツという名のスポーツシューズショップで,オニツカタイガー(現アシックス)の輸入代理店でした。

スポーツ用品メーカーというと,ドイツのアディダス,米国のアンダー・アーマー(UA),コンバース(現在はナイキの傘下),ルルレモン(LULU),VFコープ(VFC),英国リーボック(現在はアディダス傘下),日本のアシックス,ミズノなどがひしめいています。

20世紀を振り返ってみると,小売業と同じくスポーツ用品の世界も,流行の変遷,ライフスタイルの変化,そして経営者の交代などによって劇的にマーケットシェアが入れ替わってきました。

現在の巨大スポーツ用品メーカーの中で創業者が健在なのは,アンダーアーマーのケビン・プランクなどの一部の企業に限られ,過去の創業者の多くは忘れ去られていると思います。しかし,創業者の”DNA”は企業精神・企業のアイデンティティーとして遺伝すると私は考えています。

私はスポーツ業界が最も投資先として面白いと感じています。もちろん,スポーツ愛好家として色眼鏡で見てしまっているというのはあるかもしれませんが,やはり20世紀そして21世紀の現在はレクリエーション・健康といった人の生活を豊かにする産業こそが応援投資として価値が高いと感じるからでしょうか。

まずはスポーツ用品メーカーの歴史から振り返ってみたいと思います。

コンバース(Converse)

かつて栄華を極めたスポーツメーカーの中で最もレガシーでノスタルジーにあふれた企業はコンバースでしょう。コンバースは1908年にデパート経営者マーキス・コンバースが創業しました。そして,今から100年前の1917年に発売したオールスター(Chuck Taylor All-Star)によって,米国のバスケットボールシューズ市場を席巻します。

それまではバスケットボールという競技自体を開発したスポルディング(Spalding)がバスケットボールシューズの元祖でした。スポルディングは米国のスポーツ用品メーカーで,野球用のグローブなどの革製品を得意としていたのです。そうした経緯で革で作ったボールをバスケットに入れるという新しい競技を発明する素地があったと言えるでしょう。(今ではとても地味ですが・・・)

こうして米国で誕生し,徐々に人気が高まっていたバスケットボール業界に対し,ハイカットで踝までを覆うキャンバス地と滑りにくいラバー底という組み合わせのオールスターは一躍評判となります。名選手であり後に靴の販売でも成功したチャック・テイラーの名を関したモデルは現在でもコンバースで購入できます。

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米国でのコンバースの人気はその後,半世紀にわたって続き,トレーニング,ランニングなどに至るまであらゆるスポーツで使われるヒット商品となりました。

しかし突如として人気が一気に凋落します。

コンバースをバスケットボール市場から追放したのは米国企業ではなくドイツ企業でした。1917年のオールスター発売からちょうど半世紀後,1967年にアディダスが革製のスポーツシューズ「スーパースター」で米国に殴り込みをかけてきたのです。

アディダス(ADIDAS)

アディダスはドイツの名門スポーツ企業です。。創業の地はドイツ南部のヘルツォーゲンアウラッハという村です。創業者はこの村に住むルドルフ・ダスラー(兄)とアドルフ・ダスラー(弟)のダスラー兄弟のうち,弟の方の通称アディ・ダスラーです。
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ダスラー家は第一次世界大戦後の困窮の中,家庭内手工業の一環としてサッカーシューズを作り始めました。兄弟のうち,靴の開発にのめり込んでいたのは弟のアディ・ダスラーの方ででした。アディダスが後に世界的大企業になった後も,アディ・ダスラーは目立つのを好まず,靴職人として「スポーツ選手にとって最高の靴を作る」ことを目標として働き続けました。現在のスポーツ用品メーカー創業者の中で,最も”職人気質”なのは間違いなくアディ・ダスラーでしょう。

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しかし,よい靴を作るだけでは売り上げを伸ばすことはできません。外交的な兄のルドルフはマーケターとして才覚を生かし販売部門の指揮を執ります。生産部門のアディ,販売部門のルドルフという家庭内分業体制ですね。こうして1920年にダスラー兄弟商会が誕生します。

当初はうまくいっていた兄弟での共同統治体制ですが,徐々に兄弟間の軋轢が高まっていきます。そもそも,第二次世界大戦による困窮,疲弊,そして兵役義務が課され精神的に追い詰められる中,兄弟間で不仲が臨界点に達します。弟アディ・ダスラーは短期間で兵役を免除されたにもかかわらず,兄のルドルフは長期間兵役にかり出されたのです。こうした(ルドルフの目から見た)不公平などが不満となって爆発し,ついに第二次世界大戦後の1948年に兄弟商会は解散します。

ヘルツォーゲンアウラッハという村の中で川を挟んでアディダス(弟アディ・ダスラー),プーマ(兄ルドルフ)という世界的なスポーツ用品メーカー2社が並び立つことになりました。アディダスには靴職人たちが集まり,プーマには販売や営業部門の担当者が集まるという形で分裂したあとも,相互に社員のヘッドハンティング合戦を繰り広げさらに反目がヒートアップします。

こうした兄弟げんかは両者が死力を尽くすマーケティング合戦へと拡大していきます。

戦いの場はサッカー,そしてオリンピックへと移っていきました。

アディダスのスパイクでワールドカップ制覇

サッカーにおいてはアディ・ダスラー自らドイツ代表サッカーチームに同行し選手の意見を聞き,シューズのアイデアを考えては自ら図面を引き,製品を改良していきました。そうしてできたのがスタッド取り替え式スパイクシューズです。1954年のワールドカップ決勝では雨天でぬかるんだピッチの中,ドイツチームは長いスタッドに交換し見事ゲームを制したのです。こうしてベルンの奇跡と呼ばれるワールドカップ優勝によりドイツ国民は勇気を取り戻すとともに,アディダスがサッカースパイクシューズの覇者として脚光を浴びるようになりました。

オリンピックの腐敗

続いてアディダス・プーマの死闘の場となったオリンピックは,1950年代当時までアマチュア選手しか参加できないという崇高な反商業主義の場でした。古代オリンピックから続くスポーツマン精神を守るため,選手の商業的勝ちを利用してはならず,シューズ・メーカーも金品を選手に供与してはいけません。そうした規定を骨抜きにしていったのがアディダスとプーマの2社です。

1956年のメルボルン・オリンピックでアディ・ダスラーの息子ホルスト・ダスラーは奇抜なアイデアを思いつきます。選手にアディダスのシューズを無償で提供するというのです。当時アディダスのスパイクは高価であり誰もが手にできる代物ではありませんでした。アディ・ダスラーの方針である「最高のスポーツシューズを作る」ことを守った結果,安価な大衆品とは一線を画す価格帯の高級品となっていたのです。

そうした中で無償供与という響きは選手の心を掴み,大会全体でアディダスを履いた選手が70個ものメダルを獲得するというマーケティング上の成功を収めます。「ただ(無償)」をいいことにオリンピックの舞台を宣伝の舞台に変えることに成功したのでした。

その後,1960年のローマオリンピック,1964年の東京オリンピック,1968年のメキシコオリンピックまで,アディダスとプーマはいかに多くの選手に自社のシューズを履いてもらうかを競争するようになります。

あるときはトイレに入ると札束が置いてあったり,あるときは直接的に選手に茶封筒を渡すなど,公然と賄賂が横行します。こうして選手自身も,自分の才能は金になるといつしか学んでいったのです。サッカー選手で言うとヨハン・クライフやペレなどもアディダスやプーマから資金援助を受けていました。

スポーツマーケティングの闇の帝王 ホルスト・ダスラー

のちにホルスト・ダスラー(アディ・ダスラーの息子)は,あらゆるスポーツポリティックスを金で操る悪の権化として恐れられる存在に成長していきます。

たとえば,FIFA会長ブラッターやIOC会長サマランチなどはホルストが才能を見込んでサッカー界・オリンピック界のトップに傀儡として据え付けたと言っても過言ではありません。もともとスイスの時計ブランド「ロンジン」に努めていた五カ国語を操るブラッターの才能を見抜いてヘッドハンティングしてきたのです。もちろん,アディダスがスポーツ業界に影響力を行使するためのロビーストとして使うためです。

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しかし,このような全盛期のホルスト・ダスラーの政治力を持ってしてもどうにもならない相手がいました。それが,創業家アディ・ダスラー一家です。父アディ,母ケーテ,そして姉妹たちがアディダス本家の株を握っており,しかも母の方針で「アディダスの経営方針は家族会議の場において決める」ということになってしまっていたのです。

すでにスポーツ業界の表も裏も知り尽くしていたホルストからすれば理解できない古くさい経営方針だと写ったことでしょう。ですが,根っからの靴職人である父アディ・ダスラーは,「アディダスは靴のメーカーである」と決め込んでいました。

こうしてホルスト・ダスラーは半ば厄介払いという感じで子会社アディダス・フランスの社長に就任します。本家からは半分独立した経営方針で自分の手腕を発揮できる機会が訪れたのです。

こうして家族から離れてアディダス・フランスの経営を行うようになったの資金を,家族の目を盗むかのようにさまざまな持ち株会社を経由して各種スポーツメーカーに投じます。

1973年には水泳メーカーのアリーナ(arena)を設立,さらに経営不振に陥っていたフランスのル・コック・スポルティフを買収して傘下に収めます。このように打倒プーマ,そして打倒本家アディダスをもくろみ,スポーツ・グッズ,アパレル(シャツ,パンツ,水着など)にも進出してしていきます。

このようにドイツ本国がシューズにしか目を向けていない間も,ホルストは密かに個人資産と化した傘下企業を操って裏金を捻出し,アフリカなどのスポーツ協会にスポーツ支援の名目でグッズの寄付やスポーツ支援金を提供していきます。こうした種まきの目的はもちろんスポーツポリティックスです。

ホルストの息の掛かった各国のスポーツ協会関係者は,当然ながらFIFA会長選挙やIOC会長選挙の際にホルストが擁立する人物に投票します。こうして,サッカーやオリンピックが商業化され,さらにアディダスに便宜をはかってくれる人物による貴族政治が行われるようになったのです。

米国への進出

ホルスト・ダスラーは家族の目の届かないところという中には米国も含まれていました。米国は当時,父アディ・ダスラーもあまり重視していない市場でした。なぜなら,スポーツが一般社会で受け入れられていたヨーロッパと比較して,米国ではスポーツは一般人がするものという認識はされておらず,あくまでスポーツは見るものという扱いでした。(スポーツの社会的地位が低かったと言うことですね。)

この新興市場に目をつけたホルストは,1967年にスーパースターと呼ばれるつま先補強用に貝のような形をしたラバー「シェルトップ」を付けた革製で丈夫なバスケットボールシューズを米国で売り出しました。

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当時の米国ではコンバースのオールスターをはじめとして,キャンバス地のシューズが主流でした。スーパースターは瞬く間に選手の間でヒットし,コンバースはほぼバスケットボール市場から追い出されることとなります。

アディダスに対する嫌悪と反感

権力の絶頂期には電話一本で一国のスポーツ協会の方針さえ変えてしまうほどだったホルスト・ダスラーは,一方で良識あるスポーツ愛好家からは敵視されていました。ホルスト・ダスラーは(父アディのような)靴職人でもなく,アスリートでもありません。アディダスという企業,そしてスポーツを私利私欲のために金で汚した張本人というわけです。

こうした「反アディダス」の精神をもつ中に,一人の起業家がいました。名はフィリップ・ナイト。オレゴン州の元中距離ランナーです。

ナイキ(NIKE)

ナイキ創業者フィリップ・ナイトがなぜここまでアディダスを敵視し,アディダスを倒すことに執念を燃やしたのかというのは上で述べた当時の時代背景を知っていなければ理解できません。

ランニング馬鹿 フィル・ナイト

フィリップ・ナイトはオレゴン大学時代に1500m走ランナーとしてオリンピックを目指していたほどの根っからのランニング馬鹿です。残念ながらオリンピックへの出場は果たせなかったものの,スポーツビジネスに関わりたいという気持ちを持っていました。

当時はアディダスの全盛期であり,ランナーとしてアディダスのシューズを愛用しつつも,アメリカ人の学生が高価なドイツ製シューズを買うしかないという状況に不満を抱いており,スタンフォード・ビジネススクールではいかにしてアディダスを倒すかの戦略を研究し,論文として提出します。

論文のタイトルは,「日本のカメラがドイツのカメラになしえたことを,日本のスポーツシューズはドイツのスポーツシューズになしえるのか」 “Can Japanese Sports Shoes Do to German Sports Shoes What Japanese Cameras Did to German Cameras?,”という挑発的なタイトルです。内容は「日本製品は粗悪だと言われているが,低価格指向の日本メーカーが高品質のランニングシューズを作れるなら,価格による差別化で日本が新たなマーケットを開くことになるであろう。」というものでした。

このようにフィル・ナイトは根っからの負けず嫌いなスポーツマンであると同時に,起業家精神あふれる青年でした。アディ・ダスラーの内向的な職人気質とは反対です。

ブルーリボンスポーツ

大学卒業後,1963年に来日したフィル・ナイトはオニツカ・タイガー(現アシックス)を訪れ,まだ起業していないにも関わらず「ブルーリボンスポーツ」社の者(ブルーリボンとは鬼塚氏に尋ねられてとっさに思いついた名前)だと名乗り,米国でのオニツカ・タイガーの販売権がほしいと交渉します。

普通に考えたら門前払いされそうなものですが,すでに起業家の卵としてビジネススクールの卒論でも米国での販売戦略を練っていた24歳のフィル・ナイトの若き熱意に圧倒された鬼塚氏はナイトを信用し,ナイトはオニツカ・タイガーの代理店になることに成功します。

こうして1964年にブルーリボンスポーツが産声を上げました。

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当初はシューズの販売だけでは食べていけず,フィル・ナイトは会計士をやるかたわら,週末には米国内の高校の陸上大会などを回り,選手たちに安くて品質の高いオニツカ・タイガーのランニングシューズを売って回っていました。こうして蓄えた資金で店舗を設営します。

恩師ビル・バウアーマン

そして,ナイキ創業期に欠かせないもう一人の人物がいます。オレゴン大学陸上部のコーチ(ナイトの恩師)でもある,ビル・バウアーマンです。ビル・バウアーマンはドイツ(ドイツ選手とアディダスの両方とも)を倒すことに並々ならぬ執念を燃やしていました。

その目的のために自らさまざまなトレーニング方法を考えつつ,「ランニングシューズは1gでも軽い方がタイムが縮まる」ということで靴作りにも精を出していました。もちろん,商売が目的ではなく,自分がコーチを務めるオレゴン大学のランナーの成績を少しでも改善させ,オリンピックでドイツ勢を蹴散らすためです。

フィル・ナイトは,恩師バウアーマンが軽くて履き心地のよい靴を作るために,靴を分解しては,組み立て直し,実験を繰り返す姿を目の当たりにしていました。

影響を受けなかったはずはありません。この時点で,フィル・ナイトがシューズメーカーとして起業するという方向性は決まったようなものであり,コーチ兼職人であり,ナイキにとってのバウアーマンは,アディダスにとってのアディ・ダスラーのような存在でした。

古今東西,職人気質の持ち主というのは気むずかしいのか,多くの人とはそりが合わなかったバウアーマンですが,なぜか打倒ドイツ,打倒アディダスに燃える起業家フィル・ナイトとは気が合いました。むしろ,一匹狼のようなタイプのナイトが珍しく心底信奉し,心を開いた相手というのが適切かもしれません。

スタンフォード大学の教授が言うには「言うならば,人間には二種類ある。食堂に行ってごらん。一人で食事しているやつがいるだろう。自分で事業を興すのはそういう連中だ。」だそうです。もちろん,フィル・ナイトは後者でした。

こうしてナイトとバウアーマンは共同経営者として,ブルーリボンスポーツの販売とマーケティングはフィル・ナイトが,開発と生産はバウアーマンが担当する二人三脚体制が整いました。

コルテッツ

1968年にはオニツカ・タイガーの代理店だった時代ですが,「コルテッツ」と呼ばれる靴の甲に革ではなくナイロンを使用し靴底には合成樹脂を使用したシューズを売り出します。このコルテッツは現在でもナイキで販売しているヒット製品の原型です。
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ワッフル・トレーナー

バウアーマンが開発したもう一つのヒット製品に「ナイキ・ワッフル・トレーナー」という1977年発売のシューズがあります。これはグリップ力と軽量化を行うための靴底の改良に取り組んでいたバウアーマンが,ワッフルに発想を得て靴底の形状をワッフルのような凹凸のある形状にしたもので,1974年に特許を取ったアイデアです。コルテッツのデザインを生かしつつ,コルテッツのクッション材だけの靴底に対して,その下側にさらにもう一層のグリップ用ラバーを追加した改良版ですね。

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下の写真は試行錯誤を繰り返す名コーチ,ビル・バウアーマン。
nike-bill-bowermanこうして誕生した軽量ランニングシューズ・ワッフルトレーナーを見て,老舗アディダスの関係者は「ワッフルメーカーで作ったのか」とせせら笑ったと言います。まだ誕生間もないオレゴン州のシューズメーカー・ナイキは当然知名度も低く,どれだけ真剣にランナーのために作った製品だとしても,大手メーカからすると取るに足りない粗悪品だと写ったのです。

これはアディダスにとって大きな間違いでした。

ナイキ誕生

1971年にオニツカとの関係が悪化し,転換期が訪れたと悟ったフィル・ナイトは自社ブランドを設立することを決意します。こうして誕生したのがギリシャ神話の勝利の女神ニケからとったナイキ(NIKE)という商標です。

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ジョギングブーム,ランニングブームの火付け役

1967年にバウアーマンは『ジョギングー年齢を超えたフィットネス・プログラム』“Jogging: A Physical Fitness Program for All Ages”(アマゾンでは今でも中古で販売しています。)という書籍を執筆しました。これはベストセラーとなり,ジョギングの仕方と健康に与える効果,そして引き締まった美しい体型という価値観を,運動の習慣がなかったアメリカ人に伝えたという意味で,啓発書的な役割を果たしました。

また,バウアーマンが指導する選手フランク・シューターが1972年のミュンヘン・オリンピックで優勝し,米国における長距離走ブームに火が付きます。

ついに,ランニング馬鹿であるフィル・ナイト,ビル・バウアーマンにツキが巡ってきたのです。

アーノルド・シュワルツェネッガーとアメリカ人の美意識の急変

奇しくも1960年代後半~1970年代前半というのは,アーノルド・シュワルツェネッガーがボディビルダーとして大成した年でもありました。

1969年のミスター・オリンピアでは亡命キューバ人のボディービルダーであるセルジオ・オリバに破れ惜しくも2位に終わったシュワルツェネッガーは1970年に初優勝を果たします。その後,1970年~1975年,1980年の合計7回のミスター・オリンピアのタイトルを獲得します。sergio-oliva_main1969

このうち,1975年の優勝,そして1980年のカムバックについては,映画『パンピング・アイアン』『ザ・カムバック』でドキュメンタリーとして公開され全米で爆発的な人気が出ました。フランコ・コロンブ,フランク・ゼーン,トム・プラッツなどの個性あふれる選手が米国西海岸にあふれ,ボディビルディングの黄金時代が突如訪れたのです。

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引き締まったマッチョな体が受ける時代が急に到来したのです。フィットネス革命を先導したのがバウアーマンなら,マッチョ革命を先導したのはシュワルツェネッガーと言っていいでしょう。

 

(1975年のアーノルド・シュワルツェネッガー)arnold

傍観する帝王アディダス

こうしたアメリカ人の精神の変化,そしてライフスタイルの変化に帝王アディダスは何をしていたのか?もちろん,米国におけるアディダスの代理店は,オレゴン州のシューズメーカーが爆発的に成長しているということを本国に伝えていました。

しかし,アディダスはそうしたニュースを耳にしても,何も手を打ちませんでした。

その最大の理由は宿敵プーマとの争いや,ドイツ本国のアディダス宗家(アディ・ダスラー一家)とフランスのアディダス分家(息子ホルスト・ダスラー)が競争し合っているのですから,ナイキなど相手にしている暇はなかったのです。

もう一つの理由は慢心です。アディダスは「世界一良いシューズを作っているはずだ」という強烈な自負があったからです。ただし,本国のあるドイツやフランスの価値観を基準とした「良いシューズ」でしたが。

米国でジョギングブームに乗って走り始めた人々はヨーロッパとは違い舗装された道路を走っていました。それに対し,ドイツなどでは山や丘などを走る,今で言うトレイルランニング的なものが主流であり,走ると一言で言ってもシューズに求められる要素が異なっていたのです。

固い舗装道路を走るアメリカ人は高いクッション性を求めましたが,ドイツでは「ランニングシューズは山などを走るものだから,クッション性よりは堅牢な作りが良い(落ち葉のあるふかふかした道などを走るため)」という姿勢を崩しませんでした。こうして米国市場のニーズをとらえられないまま,ナイキは急成長を遂げます。

そして,1979年末にはアメリカ人の3人に一人がランニングシューズを所有し,その半分がナイキだったと言います。米国に誕生した新興市場の半分を一挙にナイキがかっさらっていったわけです。

ナイキはハイテクの会社

1970年代~1980年代には世の中はハイテクブームが到来します。そうした中で,ハイテクを強く全面に押し出すマーケティングに成功したのがナイキでした。言わずと知れた「ナイキ・エアー」の誕生です。

もともと,クッション材として軽量でかつ反発が良いと言うことでエアーを封じ込めたシューズを販売していたナイキでしたが,それを側面から目に見えるようにしたのです。

ランニング馬鹿が創業した会社として機能性重視という姿勢は崩さず,プラスアルファの要素として「ファッションとしてのハイテク」で消費者に訴求したのです。これがヒットし,現在でもナイキはスポーツ業界で最も多くの特許を取得している企業の一つです。

 

上場後の成長減速

ナイキは1980年についに上場しました。しかし,順風満帆かに思われたナイキの成長が急に減速します。

この原因は新たな宿敵リーボックの出現です。

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リーボックはもともと英国で1900年に創業したさえないスポーツ用品メーカーでした。これだけの老舗メーカーが突如1980年代に復活するという奇跡的な現象が起こったのです。

上述したフィットネスブームの到来で実は最も恩恵を受けたのは,ナイキではなくリーボックでした。それも,ランニングよりさらに新しいスポーツであるエアロビクスブームに乗ったのです。

エアロビクスは室内で音楽に合わせて軽快にフィットネスを行うというものであり,残念ながらフィル・ナイトはエアロビクスを理解できていませんでした。そこに巨大な市場があると言うことも。

リーボックは「フリースタイル」という室内用の柔らかいシューズを開発しました。これが室内で飛び回るという動きに向いており,爆発的にヒットします。しかも,なんとこれが全米でもっとも売れたシューズになり,リーボックの売上高は1981年の150万ドルから1987年の14億ドルへの急成長します。この時点で,ナイキの売り上げを上回り米国市場No.1に躍り出たのです。

(エアロビとリーボック)

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ナイキは明らかに男性用のスポーツ用品市場を指向していました。それがハイテクシューズとしての「ワッフル」であり,「エアー」であり,最近ではバック・トゥー・ザ・フューチャーに出てくる「自動ひも締めシューズ」です。こうした製品は少年たちには受けましたが,エアロビをやるような若い女性には受けが悪かったのです。

フィル・ナイトはこのとき,明らかにアディダスと同じ過ちを犯していました。「自分たちの方がリーボックより優れたシューズを作っているはずだ」という慢心と油断です。

市場(顧客のライフスタイル)が大きく変化しているときに,最も大事なのはその変化を皮膚感覚で理解することです。どんな製品も,すべての用途において優れていると言うことはあり得ません。その点,リーボックは開発力という点ではナイキに劣るものの,フィットネス・エアロビクスという狭いカテゴリーにおいて差別化に成功し,それが地滑り的なリーボックブランドの強化につながったのです。

この失敗でナイキは大きなリストラを2回行います。リーボックとの戦いに敗れたのは大きな代償となりましたが,これがナイキの足腰を強化し1990年代以降の復活につながっていきます。

生産地はアジア

ナイキはフィル・ナイトが当初から安価で高品質な日本製シューズでドイツ製シューズを駆逐することを大学で研究していたように,製造原価を引き下げることに関してはどこよりも熱心でした。むしろ,創業当時から開発やデザインは米国内で,製造はアジアの外注工場でというのを一貫して続けています。

それに対し,アディダスはドイツ国内で作っていたり,あるいは労働賃金の安価な東欧で生産をしようというときも,アディダスの「自社工場」で「ドイツ人技術者」の指導のもと製造するというスタイルでした。

韓国や台湾や中国などの契約工場に一括して生産を委託するナイキとは工場の経営方針が大きく異なっていたのです。ナイキは今で言うファブレスに近いスタイルですね。最上流の開発と,最下流の販売だけを押さえるというビジネスモデルです。

この工場を持つ,持たない以外にも,ナイキが推進した発注方法も独特でした。

急拡大するランニングシューズ市場やバスケットボールシューズ市場において,生産が間に合わないというのが一番大きな機会損失でありリスクでした。

こうしたチャンスに直面したときに,工場を「保有する」スタイルのアディダスであれば工場は設備投資を必要とし,固定資産が膨らんでいきます。また,急激に生産設備を拡大すれば,在庫リスクも当然高まります。つまり,なかなか大規模な設備投資には踏み切れないという事情がアディダスにはありました。

それに対し,工場は保有せず,アジアの最適地の工場経営者に「丸投げして生産を委託する」スタイルのナイキは,米国の小売店から事前発注を集め,発注した分は全部小売店が買い取らせるという契約方式としました。こうすることで,在庫リスクはナイキ本社ではなく小売店(ティーンエイジャーからの発注がたんまりあるので多く仕入れたい)に分散して押しつけつつ,設備投資の判断はアジアの工場経営者の方針に任せる(ナイキから大量発注が来ると見込めれば各工場が勝手に設備を拡大してくれる)という方法で,ナイキ自身は無駄な設備投資を行う必要がないわけです。

こうしたファブレスに近い生産方式は,後に米国内の雇用を守っていないとか,あるいは第三世界の児童労働につながるなどの批判を浴び,ナイキのイメージが悪化することにつながるのですが,経営方針としてはきわめて優れています。価格競争力を保つことを創業当時から考え抜いていたフィル・ナイトならではの戦略だと言えると思います。

JUST DO IT

ナイキの最も有名なスローガン「JUST DO IT」は,広告嫌いのフィル・ナイトが最初に契約したプロモーション会社であるワイデン・アンド・ケネディ社によるものです。ワイデン・アンド・ケネディのサイトを見てみると今でもトップページにはナイキが載っています。スポーツ史上でも最も成功したキャンペーンとなったのですから当然でしょうか。

この広告の伝えたいメッセージは,「レボリューション」というものであり,「健康やフィット値をないがしろにしているアメリカ人はみな後ろめたさややましさを潜在的に感じている。そうした人々に”つべこべ言わずに重い腰を上げろ”」と叱咤激励するものでした。これは死刑執行を待つ囚人が述べた最後の台詞「Just Go Ahead, Just Fuck It」という刺激的な台詞をもじったものです。

この1988年の「JUST DO IT」の成功はナイキにとって大きな意義を持っていました。それまで商品の広告や宣伝を嫌い,優れたアスリートなら優れた製品のことは分かってくれるはずだと言わんばかりの態度を示していたフィル・ナイトが『プロモーションとは何か?』というものを学び取ったからです。

ナイキにはアスリート向けの良い製品だけではなく,まだ運動していない人々にメッセージを伝え,活動的なライフスタイルを送らせる,その一助としてシューズやアパレルを販売するという役目を果たすために,広告を使えば良いということに気づいたというわけです。

ナイキ・ガイ

ナイキは1980年代はリーボックに押されて低迷していましたが,その間にもその後の成長の布石となる方策を次々と練っていました。

その一つが,「ナイキ・ガイ」と呼ばれるアスリートへの投資です。

「ナイキ・ガイ」というのはフィル・ナイト自身のような負けず嫌いで,官僚体質や慣習が大嫌い,反逆児でスポーツを心より愛するアスリートたちのことを指します。たとえば,マイケル・ジョーダンやチャールズ・バークレー,マッケンローなどです。

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今でこそ,一部の有力選手と巨額の契約を結ぶというのは一般的になっていますが,これは1980年代にアディダスなどに比べて資金力の劣るナイキの苦肉の策でした。

アディダスは「オリンピックの金メダリストのうち100人がアディダスを履いていた」と自慢するように,1カ国のチーム全体だったり多くの選手をまとめて支援するというようなやり方を好んでいましたが,こうした方法は多額の資金を必要としました。

それに対し,ナイキは「ナイキの精神を体現する一部のスーパースターとだけ契約を結ぶ。資金を一部の選手に絞れば,アディダスなどとの契約競争にも勝つことができる」というわけで,ナイキ・ガイを探し求めるようになったのです。

ナイキ・ガイとは事実上,ナイキと一体化したような存在でした。ナイキのマーケティングチームは,ナイキ・ガイと一緒に出歩き,選手が個人的に興味を持っている自動車やアクセサリーや趣味などあらゆる好みを調べ上げます。こうして徹底的な調査によって集まった選手のイメージをシューズのデザインに取り込みます。

選手自身の個性が詰まったシューズは,各選手の人気を高めるのに一躍買うだけではなく,こうしたナイキ・ガイのポートフォリオを駆使して,ナイキが作り上げたいコーポレートイメージをモザイク画のように作り上げていくという仕掛けです。

ナイキが世界最大のスポーツ企業となった今も上品な感謝と言うよりは「反逆児」「悪童」といったワルのイメージを持ち続けているのは,ナイキが意図的にそうした虚像を作り上げているからに他なりません。

復活

1980年代の低迷期に行った様々な施策,たとえば,最適地生産を求め韓国や台湾へと次々に発注先を振り分けていく生産方式,「JUST DO IT」のような大規模な潜在的顧客の掘り起こしキャンペーン,ナイキ・ガイと契約することによるコーポレートイメージの確立など,これらはことごとく当たり,1991年にはついにリーボックから売り上げNo.1の地位を奪い返します。

フィル・ナイト

経営者としてのフィル・ナイトは,熱狂的なスポーツファンであり,ナイキに情熱と反逆という炎を吹き込みつつも,一方で生産方式などに関しては日本などをよく研究して取り込みつつ,競合の弱みを研究してナイキの差別化要素を見つけ出し,ビジネスチャンスに結びつけていく聡明な人物であることがよく分かります。

一方,天性の起業家としての勘も鋭いものがあります。

「マッケンローが引退して10年経った後,ジョン・マッケンローの名を冠した建物が人々にとってどんな意味を持つでしょうか?マイケル・ジョーダン・ビルという名前は無意味になるのでしょうか」という問いに対して,ナイトはこう答えました。「私はこう考えている。10年経ってもマイケル・ジョーダンが偉大な選手であったことは,世界中の人々にとって大きな意味を持っていると思うし,ジョン・マッケンローがテニス界に残した偉業は誰も消し去ることができないと思うんだよ。人の行いの中には永遠に残るものがあると,私は信じているんだ。決して色あせないものがあるとね。」

この言葉にはフィル・ナイトの選手たちへの愛情,そしてスポーツへの愛情が溢れていますね。

スポーツ市場まとめ

スポーツ業界というのはコモディティマーケット並みにきわめて競争が厳しく,一寸先は闇と言えるような業界です。コンバースの天下が1917年~1967年まで半世紀続いたのは当時,世界貿易が盛んではなかったというのが幸いしたと言えるでしょう。ですが,その後のアディダスの天下,続いて1981年にはナイキが売り上げNo.1になったかと思うと,1987年にはリーボックが世界No.1の座につきます。そしてナイキの反撃によって1991年には再びナイキが売り上げNo.1に返り咲きます。

それぞれの転換期を見てみると,スポーツに投資する投資家として気をつけないといけない要素が見つかります。

  1. テクノロジーの転換
    一つ目は,コンバースのキャンバスシューズから,アディダスのレザーシューズに転換したときや,アディダスからナイキのエアーへの転換したときのように,シューズの機能面で差が大きく開いたときにマーケットシェアが大きく動きます。
    正確にはテクノロジー自体は特許で守られてるとはいえ,ある程度は類似製品を出すこともできるはずなのですが,ひとたび顧客の心にブランドイメージがすり込まれてしまうと,なかなか容易には取り払えません。
  2. ライフスタイルの転換
    もう一つは,1970年代のランニングブーブに乗じてナイキが急成長を遂げたケースや,1980年代のエアロビブームでリーボックが急成長したケースがあります。
    このように新たな市場が創出されると,旧態依然とした企業は(ナイキでさえも!)なかなか消費者の意識の変化についていけません。

こうした転換期はハイテク企業(半導体やインターネット企業)と同じか,それ以上に厳しい競争環境が待ち受けており,現在どれだけ優位な立場にいる企業でも安泰と言うことはありません。

8 thoughts on “経営陣③ ナイキ(NKE)のフィル・ナイト

  • 2016年12月6日 at 7:48 AM
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    大型記事ありがとうございます。
    メーカー・業界にここまで踏み込んだ記事を書かれるのは他にないと思います。

    Reply
  • 2016年12月11日 at 8:46 PM
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    大型記事ありがとうございます。
    管理人さんが本当に米国株を楽しんでおられるのが伝わってくるようです。
    実は自分はスポーツが苦手ということもあり、これらの企業への投資は考えていませんでした。
    (とんでもない理由ですが(・_・;))

    そういえば以前の記事でバックテストの重要性を説いておられましたが、具体的にはどうやっておられるのですか?
    いま20銘柄位のポートフォリオの過去リターンを出そうと考えていますが、
    これらを追跡するならどのようにされますか?

    アドバイスをいただけるとありがたいです。

    Reply
    • 2016年12月19日 at 7:00 AM
      Permalink

      `qwさん
      出張のため返信が遅くなってごめんなさい。
      バックテストについてですが,過去の株価はYahoo Finance(米国)にあります。
      http://finance.yahoo.com/quote/KO/history?period1=-600020400&period2=1476543600&interval=1mo&filter=history&frequency=1mo
      上記のリンクはコカコーラの例ですが,期間を設定して,Historical Pricesに設定すれば,株価と配当の一覧を作ることができます。

      あとは,10年前に1万ドル投資したら何株買うことができて,それの配当を再投資すると,毎年何株ずつ増えていって・・・というのを
      スプレッドシートで計算しています。
      一回計算用のシートを作ってしまえば,あとはティッカーを入れ替えるだけですので,
      そんなに時間はかからないと思います。
      参考になれば。

      Reply
  • 2016年12月13日 at 9:30 AM
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    良記事ありがとうございます。

    Reply
  • 2017年1月21日 at 6:28 PM
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    しばらく更新がありませんが、お元気でしょうか?

    Reply
    • 2017年1月21日 at 6:47 PM
      Permalink

      `qwさん
      コメントどうもありがとうございます。
      12月より多忙 & アメリカが冬時間になってしまって場中の値動きがチェックできていないという理由で
      更新をサボっていました。
      また折を見て更新します。

      Reply
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